加藤人形さまインタビュー

 

村山人形店では、全国で唯一「3種類のオーダーメイド制作」ができます。それは「私だけのお雛様」として、長く愛されるお雛様をお客様に提供したいからです。ネットによるオーダーメイドを実現させてくださっているのが、名古屋の加藤人形です。加藤人形さんならではの、こだわりをインタビューさせていただきました。

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加藤高明(右から2番目)さん


─────加藤さんの、人形師さんとしてのお名前である「蓬左佳峰」の由来をお聞かせください。

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「ホウサ・カホウ」と読みます。蓬左は名古屋という意味です。父は平安を名乗っていましたが、京都っぽい感じがしますよね。僕が代を譲ってもらった時に、名古屋生まれですし、名古屋っぽい名前にしたいと思ったんです。いろいろ考える中で、大名家の宝庫・コレクションを収蔵している徳川美術館に蓬左文庫という施設があるのを思い出したんです。蓬左文庫は今で言えば"名古屋図書館"みたいな意味。東海道五十三次の熱田から桑名まで、江戸時代は海を渡ったんです。木曽三川ーー木曽川、長良川、揖斐川はまだ整備がされていなくて、街道より海を渡った方が楽だった。その海から見える熱田神宮の大きな森が中国の伝説の蓬莱山に似ていたために、蓬莱と呼ばれるようになったらしく、そしてその蓬莱の森の左手に名古屋城が見えたものですから、蓬莱の左で、蓬左が名古屋を示す言葉になったそうです。佳峰はうちの先先代、祖父が佳秀を名乗っていて、また父が京都の大橋弌峰さんという職人さんが大好きなものですから一字ずついただいて、果報になるといいねという意味も込めて「佳峰」としました。



─────こちらのお家は、お雛様作りはいつから?

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もともとは母方の祖父が、戦前に名古屋で人形店を始め、母もそこを手伝っていました。父と母が結婚したころは昭和のベビーブームでものすごく忙しかったものですから、父も会社勤めを辞め仕事をするようになり、昭和52年に加藤人形店として独立したわけです。父もそれだけの数の人形を作り、一生懸命やったんでしょう、人形業界の中でも良いものを作れるお店だと言っていただけるようになって。値段の話ばかりしてもいけませんが、今の人形業界は手をかけたものとそうでないものとが二分するような状態なんです。うちは父の代から少し値打ちではあるけれども、手の込んだものを作るという店でしたから、その思いだけは受け継いでやっております。

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もう小学生のころから忙しい季節には夜中まで箱詰めの手伝いをしていましたから、いずれ継ぐつもりではいたと思うんです。人形作りは父に教えてもらうつもりでおりましたので、大学では経営学だけはやっておこうと思ったんですが、まあ勉強は全然しませんでした(笑)。早くに始めたほうが技術は身に付くというのが父の考えだったのでしょう、大学2年生、20歳になった時に仕事をしなさいと言われたんです。もうなのか、まだなのかはわかりませんが2016年には25年を迎えました。同世代の職人さんは5〜10年ぐらい一般企業で働いてから人形作りを始める方が多いものですから、私だけキャリアが長いんですけど、外で飯を食ってないぶん世間知らずとよく言われます(苦笑)。


─────名古屋のあたりは、お雛様文化はいかがですか?

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ひと世代前までは名古屋はとても盛んなところで、作る方もものすごくたくさんいらっしゃったんです。京都は別格として、東京、埼玉、静岡と並んで日本の4大産地と言われていました。名古屋は京都に近いので、京都風の品物を作る方が多いかもしれません。でも愛知県は不思議なところで、尾張地区は京都風、三河地区は関東風、だから名古屋あたりは汽水域みたいもので両方が混じりあっている感じです。僕らも関東風のものも京都風のものも作ります。今はどこも職人が少なくなってしまい、埼玉は一人もいらっしゃらなくなってしまったようです。ベビーブームのころはとにかく売れる時代。当時は段飾りが主流で、たとえば七段飾りだと15体の人形がいるので、それはそれはたくさん作っていましたね。今はお殿様とお姫様というご家庭も増えてきています。


─────加藤さんの人形作りに対する思いをお聞かせください?

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お雛の始まりは、平安時代。医学が発達していない時代ですので死産するケースが多かった。でも当時はどうして赤ちゃんが亡くなってしまうのかがわからず、災厄が憑りついたんじゃないかと思われていたわけです。それで自分の子に災厄が憑りつかないように身代わりの形代を置いて、そっちに憑りついてる間に出産すれば助かるんじゃないかと考えた。その身代わりがお雛の起源です。当初は簡素な形でしたが、着物を着せるようになってお雛様になっていきました。災厄が自分の子と間違えるようにしなければいけないので、ちゃんと人の形をしていなければいけないし、見すぼらしいものを着ていたら大事にされてない子だから憑りついてもしょうがないと思われるといけないのでと良い着物を着せるようになりました。ですから加藤人形では親御さんの思いを心に留めてお雛様を作らなくてはいけないと思っています。


─────その思いが、加藤人形店さんの人形作りにも表れていらっしゃるわけですね。

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はい。うちでは着物を着せる前の胴を人の形に見えるように作っています。ほとんどお人形屋さんは胴だけで足がないんですね。なぜなら足のある人形に袴をはかせるとしたら、袴もはけるように作って、着せて、足を曲げて正座をさせるという作業をしなければなりません。また人形がまとうのは本来は着物なので、浴衣でもそうですが、上から下までちゃんと繋がっていて、前を合わせて帯を締めてとなります。着せてしまうとお腹のところで絞ってしまうものですから、そんなふうに作らなくてもわからないと言えばわからないんです。だから人形屋さんは結構省略して、下は巻きスカートのようにして留めて、上はチョッキのようなものを着せてしまう。着物ならちゃんと着物として成立させて、脱がしても人形であるというのが当店の考え方ですが、たぶん日本中を探してもこんなことをしているところはないかもしれません。でも僕たちには、もし僕たちの品物で子供を守れるならば、より人の形に近づけて作りたいという思いが根本にあるんです。


─────そういう思いを強くしたきっかけがあるのですか?

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父の時代はものすごく大量に作らなければならなかったのでそんな作り方は難しかったんです。僕の代になって、大量生産できる環境ではなくなりました。その時にじゃあどんな姿勢で作っていくべきかを考えた時に、お雛の根本に戻ろうと思ったわけです。ちょうどその時に娘が生まれたんですが、感染症で生死をさまよった時期があって。僕はそれまで神様など信じていなかったのですが、その時だけはお百度を踏んだり、とにかく何かにすがりたい心境になったんです。その出来事を経験した時に、自分たちが作ってるものこそそういう起源があるものじゃないかと改めて気づいたんです。ですからお雛の由来であり、こういう時にこういうものを着るなど有職故実を一から勉強し直して、自分たちが作っているものの意味を強く意識するようになりました。ただお雛を品物としてしか見ない方が多くなってしまいました。ですから村山人形店さんは貴重です。僕らのそういう話を真面目に聞いてくださる。実はそういうお店が各県に一件くらいありますので、僕もそういうところを回って商売をさせていただいているんです。


─────加藤さんの工房では、お客さんのオーダーによる一点物の人形も手がけていらっしゃいますよね。

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そうですね。うちでは、人形に関する全行程を行っております。お顔だけは愛知県碧南市の頭師さんにお願いしていますが、そのほかは全部うちで行っています。
着物の生地は、生地屋さんの見本市で仕入れてくるんです。たくさんの反物を持っていますので、サンプルを見て、組み合わせを選んでいただくことができます。また「こういう生地で作ってほしい」と生地を持ち込んで来られるお客様もいらっしゃいます。それをやり始めたのは、反物一本で30体ぶん取れるとしたら昔はそれだけの発注があったんですが、だんだんそれが減っていくもんですから逆に多品種小ロットに対応するようになっていきました。それならこちらが企画して作る人形とは別に、紫が得意、ピンクが得意などお店にも個性がありますから、お店が売りやすい品物を作ったら面白いんじゃないかと思ったのがきっかけですね。究極はその組み合わせを一個作るということになります。
村山さんでは、唐衣と唐衣裏地、五衣、上着、そして単の組み合わせをお客様に選んでいただきオリジナルをオーダーいただくというスタイルを取らせていただいています。
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─────最後に、改めて、お雛様への思いを聞かせてください。

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昨今は量販店で格安のお雛様を購入できます。でも別にそれが悪いわけではありません。もともとお雛というものは、お金持ちだからこそのものではなく、お子様を守りたいと思う親の気持ちが重要ですから、極端に言えば、折り紙一つでもいいんです。もちろん、そんなことばかり言っていては、僕らもご飯が食べられなくなってしまいますから、いろいろ商品を考えるわけですが、その親御さんの思いだけは忘れずに持ち続け、お嬢様のすこやかなご成長とご家族の笑顔と幸せを願って作っていきたいと思います。

村山人形店の雛人づくり(加藤人形店さまでの撮影動画)


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